女の祈り男の命、そして城のまばゆさ 姫路の歴史 第1弾
10月28日の街中散策は天守閣の修理の為に全国からの観光客が減少し、かつての喧騒から静けさを取り戻した姫路をじっくり訪ねる予定だ。只今地元のボランティアガイドとコースの打ち合わせ中。今回は地元姫路の会員さんにもご参加いただき懇親を深める事が出来ればと考えている。昼食は姫路ならでのB級ランチー姫路おでんを検討中ですのでご期待ください。
散策の行程を組む前に南北朝の動乱から江戸時代の終焉までの期間の概略をつかんでみたいと思い歴史街道ロマン紀行からの引用をご紹介します。参加予定の皆さんも一緒に姫路の歴史を学んでみませんか。
JR姫路駅から「五十メートル道路」を歩くと、ほぼ十五分で城の大手門に着く。近い。
もっとも駅前広場あたりに旧外濠があったといわれるから、旧市街地の全体が城郭といってもいい。
人々は朝も夕も城をみる。城とともに生きている。
古来、これほどのランドマークと、豊かな後背地、さらには西国と京、江戸を結ぶ山陽道という、巨大な人と物と情報のルートに恵まれた土地はまれである。うらやましいほどの立地である。
だが、城が美しければなおいっそう、そこに繰り広げられた男たちの命のやりとり、女の祈りの深さがおもいやられる。
万葉のむかし、この姫山は桜咲くのどかな丘であった。南北朝の動乱のとき、豪族・赤松則村が、元弘三年(一三三三)はじめて砦を築いた。異説もあるが。
毛利攻めで、秀吉は姫路を拠点として転戦し、ここに初めて天守閣を造った。
徳川の時代、池田輝政が関ヶ原合戦の功績で慶長五年(一六〇〇)城主となった。八年の歳月をかけ大・姫路城を築いた。
城主は、短い期間でよく代わったが、寛延二年(一七四九)、酒井忠恭が城主となったあとは、その酒井家が明治の版籍奉還まで百二十年間、地位を守った。
幕末、家老の河合隼之介の私塾・仁寿山學で学んだ若い武士のあいだに、勤王の動きがおきた。だが、藩主は佐幕派である。打ち首や投獄があいつぎ、これに抗議して自刃する人がでた。
明治元年、新政府側は城を威嚇射撃し、ついに開城となった。
ざっと、以上は男の歴史。
女性の名も多く残っている。
まずは、あの千姫。
池田家のあとの城主・本多忠政は、美丈夫の嫡男・忠刻と、その妻・千姫も伴った。
忠刻は、宮本武蔵を指南役として剣に励んだ。千姫は、自ら選んだ夫の頼もしさ、誕生した男子のかわいさに、大坂落城の悲劇も忘れて、幸せの永遠につづくことを祈ったりしたのだろうか。
それもつかのま、男子は早世し忠刻も三十一歳の若さで去って、千姫は江戸へ戻り、出家した。
井原西鶴や近松門左衛門で知られる「お夏清十郎」や、家伝の皿を隠されて(江戸では割ったとされている)手打ちにされる播州皿屋敷の「お菊」、あるいは、城主が国を傾けた遊女「高尾」の物語など-この城のまわりには、男にせよ女にせよ、城に負けないまばゆさをもつ人が多いようにみえる。
ちなみに、城内に千姫ゆかりの櫓や長局、お菊の井戸が残っている。また皿屋敷の話は全国各地に類似の話がみられる。
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