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 【世界文化遺産・姫路城】         このブログは松寿会阪神地区会員の皆さんの情報交換・連絡用です。投稿にはIDとパスワードが必要、管理人までご連絡ください。


by syojyu-hansin

7月街中散策会 宝塚巡礼街道と寺内町小浜を訪ねる

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 7月街中散策会では宝塚中山寺巡礼街道と毫摂寺寺内町の小浜を訪ねます。
早いもので2年前の10月にスタートした例会も次回で20回目となり、回を
追うごとに少しずつ参加者も増えて特に昼食会を通じて会員同士の親密度
(酒の席上かもしれないが・・)も深まってきたように感じられます。もう
夏真っ盛りになりますが暑さ対策を十分に、元気良く参加してください。
今回の昼食はとびっきりの庭園でおいしい極上和食をリーゾナブル価格でご
堪能頂けます。

 ①前回案内でご集合時間が抜けていました。すみません。
   阪急山本改札出口 AM0900ご集合 

 ②出欠連絡まだの方は出来るだけ早めにお知らせください

 ③6月長田例会の写真はメール~ドロップボックスでお届けしました
  恒例の街中例会動画は今回お休みです。


                      by管理人

地名の由来
宝塚の「塚」は「塚」の旧字体で、「盛り土をした墓(古墳)」を意味する。宝塚は文字通り古墳の名称であるが、宝塚には古墳が多くあり、宝塚と呼ばれていた古墳に関しては諸説あって場所が特定されていない。江戸時代には「宝塚」の地名が使われていた。(後述)
1.旧川面村川面に宝塚と呼ばれていた古墳があり、近隣の新田(現:御殿山)も宝塚と呼ばれた[1]。1672年の検地記録に、川面村の小字として宝塚東・宝塚南・宝塚北が記されている。
2.宝塚山(ほうちょうざん)宝泉寺[2](現:宮の町)の地に、神功皇后の母である高額比売命(たかぬかひめのみこと)を祀った古墳があり、この高額塚(たかぬかつか)が宝塚(たからづか)へ転訛した。
3.旧米谷村(現:米谷)に塚があり、この塚の許で物を拾うと必ず幸せになったため、宝塚と呼ばれていた[3]。
4.旧良元村伊孑志に宝塚と呼ばれていた古墳があった(現:宝梅)。

このように古くからある宝塚の名称は、明治になって温泉名や駅名となった後、1951年(昭和26年)に初めて市町村名として採用される。

沿革

先史・古代
4世紀頃から7世紀にかけて、多くの古墳が造られる。
7世紀初期より、中山寺、売布神社などの寺社が創建される。
10世紀後半、摂関家の私牧(まき)として川面牧が成立する。

中世
12世紀、川面牧が荘園化し川面荘となり、米谷庄など新たな荘園も成立する。
1223年(貞応2年)「小林の湯」(後の宝塚温泉)の記録がなされる。
15世紀末、小浜庄が成立、毫摂寺創建により小浜が寺内町として発達する。

近世
武庫川左岸は摂津国川辺郡、右岸は同武庫郡に属す。
16世紀後半、山本村で接ぎ木手法が発見され、豊臣秀吉の庇護の下、植木産業の礎が築かれる。
17世紀、有馬街道の宿場町として小浜宿が設けられる。
小浜宿の設立とともに酒造が発達。灘五郷に先立つ大酒造業地となるが、18世紀から次第に灘五郷へ譲渡され消滅。

明治以降
1887年(明治20年) - 宝塚温泉が開業。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、川辺郡小浜村・長尾村・西谷村、武庫郡良元村が成立する。
1897年(明治30年) - 武庫川が氾濫する。 阪鶴鉄道(現在の福知山線大阪~宝塚間)が開通。
1902年(明治35年) - 宝来橋完成。
1910年(明治43年) - 箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚本線)が開通。(阪神間モダニズム)
1914年(大正3年)4月1日 - 宝塚少女歌劇団(後の宝塚歌劇団)第1回公演。
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by syojyu-hansin | 2011-06-29 09:49 | 街中散策会