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 【世界文化遺産・姫路城】         このブログは松寿会阪神地区会員の皆さんの情報交換・連絡用です。投稿にはIDとパスワードが必要、管理人までご連絡ください。


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 皆さんご存知ですか。神戸の川がきれいになったことを。
その中でも住吉川、都賀川がきれいだと思います。
確認の意味で実際に歩いてみてください。

住吉川も都賀川も鮎が住み着いて今の季節でも泳いでいます。
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スバらしいですね。
特に住吉川河口ポートライナー南魚崎北側(菊正近辺)では
15cm程度のアユが群れをなして泳いでいます。

 又今は鴨が越冬しています。夏には子供たちが川泳ぎしています。
水が驚くほどきれいになり汚れは全くありません。

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 私は未確認ですがびっくりすることは住吉川の上流には蛍が
生息しているとのことです。
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 そしてクレソンも自生しているという話も聞きました。

余談ですが諏訪山の山手女子大学の構内でも蛍が飛ぶようになったとか。
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by syojyu-hansin | 2010-12-20 15:11 | 地域情報 | Trackback | Comments(0)
お出かけしてみませんか。

 テーマ 特別展 ワイドビューの幕末絵師 定秀展
 
 場 所 神戸市博物館

 期 間 12月11日(土)~2月13日(日)

 料 金 一般 500円

 学芸員による展覧会解説会 1月22日(土)・2月5日(土)
              午後2時~ 参加費:無料

 幕末浮世絵の巨匠・五雲亭貞秀(ごうんていさだひで)は、天保年間(1830-44) から武者絵などの描き手として頭角をあらわします。歌川国芳に私淑し、西洋製版画を多く所持していた貞秀は、濃密で写実的な作風で評判となりました。
 国芳亡き後、貞秀は浮世絵界を代表する絵師に躍り出ます。特に彼が得意としたのは、3枚以上の木版画を連続させて構成する横長大画面の作品で、しかもその題材のレパートリーは、従来の浮世絵師の枠組みを越えるものでした。その代表的な題材が、ペリー来航を経て、急きょ建設された国際都市「横浜」です。外国人住居が軒を並べる街角、行き交う人々や船舶の様子、はるか上空から街全体を見渡す鳥瞰図、外国人たちの生活に密着した風俗図などを、貞秀は膨大な数のワイドビューの錦絵として描いていきます。
 貞秀によるワイドビューの作品としては、日本各地の風景を超広角に描いた多くの鳥瞰図が想起されます。なかには現在の神戸市域を描く作品もあります。さらに「橋本玉蘭斎」の名で、江戸図・国絵図・世界地図なども多く手がけ、地図製作者としても活躍しました。
 激動の幕末期を圧倒的な表現力と博識で駆け抜けた浮世絵師・貞秀。表情豊かな人物画からダイナミックな鳥瞰図まで、そのワイドレンジな活動の全般を紹介します。本展覧会では貞秀による錦絵約130 点の他に、その影響を受けたと思われる「大正の広重」吉田初三郎の鳥瞰図も併せて紹介いたします。

                   (神戸市博物館HPより)
 神戸博物館の詳細はここをクリックしてください
                   by管理人
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五雲亭貞秀《再改横浜風景》(外国人居留地を描く左半分
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五雲亭貞秀《再改横浜風景》(外国人居留地を描く左半分
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by syojyu-hansin | 2010-12-18 17:47 | 生活・文化・教養 | Trackback | Comments(0)
 先月25日21名の会員さんが参加した「兵どもの平野、福原歴史散策」バタバタしているうちにムービーのアップがとうとう本日になってしまった。

 身の回りの情報は比較的沢山耳にはいてくるが今住んでいるこの地に何が有ったのか、その歴史的背景は、そして今にどうつながっているのか、私達はこの地に長い間暮らしているが全くと言ってよいほど知らないのだ。これまで十数回散策してみてその事を痛感した。神戸にこれからも住み続けるなら今からでも遅くはないから少しでも先人たちの想いと足跡に触れるようにしていきたいものである。

 参加されていない会員さんも是非中世~近代の神戸の歴史に触れ見てください。
                   by管理人


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by syojyu-hansin | 2010-12-06 09:03 | 街中散策会 | Trackback | Comments(0)
 今年もルミナリエが開催されます。ルミナリエの混雑差は間違いなく 初日が一番空いています。なんと、一番多い日との差は 約30倍!!

初日なら東遊園地では、ゆっくりルミナリエの美しい眺めを見られるでしょう!!

平日が難しい方は、12月4日 土曜日、12月5日土曜日がオススメです。

2回目の土日 12月11日 土曜日、12月12日 日曜日に比べて
半分から3分の1の人出です。

2回目の土日では、ルミナリエを見るのに1時間~2時間は並ぶことを
覚悟して行った方がよいかと。

ルミナリエ開催日 2010年12月2日(木曜日)~12月13日 月曜日

点灯時間
 平 日 月曜日~木曜日 18時~21時30分
 金曜日 18時~22時
 土曜日 17時30分~22時
 日曜日 17時30分~21時30分

 詳細はここをクリックしてください
                        by阪神管理人
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by syojyu-hansin | 2010-11-22 08:16 | 地域情報 | Trackback | Comments(0)
f0222687_1082420.jpg平野・兵庫の歴史(中世~近代)情報のお届け最終回です。

近世

 1568年に尾張出身の織田信長が上京して畿内をおさえ、三好勢が追い出されるころ、東播磨では三木の別所氏が勢力をのばし、西区の豪族や寺院も別所氏 の配下に入りました。この別所氏が中国地方の毛利氏と結んで信長にさからったため、信長は羽柴秀吉に三木城攻撃を命じました。別所と結んでいたこの地方の 勢力も秀吉の攻撃を受け、北区の丹生山明要寺・石峯寺・淡河城が攻め落とされ、近江寺・如意寺・最明寺なども焼かれたと伝えられています。このような混乱 の中で、農民たちも生活を守るために結集し、たくさんの村ができました。合併前に大字といっていたものが、ほぼこのころ成立した村だと考えていいでしょ う。人々は村ごとに鎮守の神社を祭り、団結を強めました。
秀吉は明石郡を部下のキリシタン大名高山右近に治めさせました。右近は枝吉城に入り、1585年には城を明石川の川口西方に移して船上城を築きました。 2年後に西区の地方は秀吉の直轄領になりました。信長の死後、天下を統一した豊臣秀吉は検地や刀狩りを行うとともに、伊川谷の白川村と布施畑村の間、塩屋 川沿いの多井畑村と下畑村の間などで摂津と播磨の国境を決めなおしました。
秀吉死後の関ヶ原の戦いの後、播磨は姫路城主・池田輝政の領地となりました。やがて明石郡は小笠原忠真の領地とされ、忠真は船上から城を明石川の東の丘 の上、今の明石城に移築しました。こうして明石藩ができ、西区地域は明治の廃藩置県まで明石藩の支配を受けるわけです。歴代の藩主は表のとおりです。
江戸時代の明石藩主
•1617~ 小笠原忠真
•1633~ 松平康直―光重
•1639~ 大久保忠職
•1649~ 松平忠国―信之
•1679~ 本多政利
•1682~ 松平直明-直常-直純-直泰-直之-直周-斉韶-斉宜-慶憲-直致
17世紀後半まで親藩や譜代の大名が入れかわり藩主になりましたが、1682年からは福井県の大野から代わって来た松平家が明治まで明石藩を治めまし た。 江戸 時代の前半には全国でさかんに新田開発が行われましたが、この地方でも神出や岩岡の台地、伊川谷の漆山などに新田の村々ができました。f0222687_10243623.jpg1659年に藩主に なった松平日向守信之は熱心に開発や農業の振興をすすめたといい、彼の死後に農民たちは信之を供養する石塔などを建て、それらは神出の最明寺や漆山、垂水 区霞ヶ丘、明石市の大久保町森田、鳥羽円通寺、魚住町清水などにあって、今でも「日向さん」とよばれて大切に守られています。台地の上の新田は畑が中心で したが、岩岡町では1691年に藩主・松平直明のすすめで煙草栽培が始められ、これは赤坂煙草とよばれて藩の経済をもうるおしました。ここでは1900年(明治33年)にアメリカから品種や技術をうけ入れて栽培を続け、日本の近代タバコ栽培発祥地とされています。f0222687_10262817.jpg
江戸時代には農村の経済も発展し、農民文化が成長してきましたが、西区では特に能の上演が興味ぶかいものでした。稲刈りのあとの秋祭りでは村の鎮守でい ろいろな芸能が神に奉納されました。そのような時に芝居を上演する場が農村歌舞伎舞台で、兵庫県は全国でも指おりの農村歌舞伎舞台をもつ県なのです。北区山田町下谷上の舞台は 国の重要文化財になっています。ところが西区の村の鎮守の境内には能の舞台がたくさんありました。全国的にも農村舞台は歌舞伎舞台が ふつうなのですが、加古川流域と明石川流域の村々には能の舞台が多く、めずらしい地域なのです。櫨谷町・平野町・玉津町・神出町で5つの能舞台が残ってい ます。また、寺院ではお正月や節分のころに追儺の鬼踊りが多く続けられています。

近代

 幕末の世の中の動揺は西区の農村地帯にも影響しました。1858年の日米修好通商条約によって兵庫の開港が定められ、その東の神戸村に外国人居留地の建 設が決まりました。やがて関東の開港場・横浜近くで大名行列の武士と居留地の外国人との衝突、つまり生麦事件がおこりました。幕府は神戸で同じような事が おこらぬようにと、大名行列のための西国街道のバイパス建設を決定し、東灘区の石屋川の土手から街道と別れて六甲山地を西に進み、明石市大蔵谷でふたたび 街道に合流する道路「徳川道」が造られました。徳川道は西区と垂水区の境の丘の上から漆山を通って大蔵谷におりていました。
明治維新の後、西区の地域は1915年(明治4年)7月の廃藩置県で明石県とされ、同年11月には西の姫路県に吸収され、数日後に飾磨県と改められました。飾磨県は1920年(明治9年)の府県制再編で東の兵庫県に合併され、今に至っています。そして1889年(明治22年)に市制町村制が実施されて、江戸時代のたくさんの村々は表のような7つの 村にまとめられました。 7か村の明治以降の人口の変化は、地域の発展を物語っています。

 7つの村々は1947年(昭和22年)3月に神戸市に合併して垂水区に編入されました。上の人口の変化を見ると、明治以降、国道175号が作られ神戸電鉄三木線がつい て明石や神戸や三木との交通が発達しても、1965年(昭和40年)ごろまでは全体としてのどかな農村地帯だったことがうかがえます。しかし、1970年(昭和45年)の第2神明道路 や1972年(昭和47年)の市営地下鉄西神線の建設、1972年(昭和47年)からの西神ニュータウンの本格的建設で、この地方が急速に発達していることがわかります。
1982年(昭和57年)8月、西区は9万人ほどの人口で垂水区から分かれて独立した区になりました。その直前の3月に糀台・狩場台あわせて370戸でスタートした西 神ニュータウンは、現在では13,318世帯。1985年(昭和60年)3月に入居が始まった神戸学園研究都市も現在では5,226世帯です。そのほか1993年(平成5年)からは西 神南ニュータウンも建設されて、新しい生活が始まっています。1985年(昭和60年)3月に学園都市まで開通した市営地下鉄は、1987年(62年)3月には西神中央駅まで完成し、 区ができて5年目には人口は中央区より多くなり、1990年(平成2年)には15万人をこえました。1991年(平成3年)2月には西警察署が移転し、6月には区役所の西神中央サービスコーナーが開かれ、生活環境もしだいに整えられてきています。以前から住民に対する自治会館も各地に建てられてきました。
また、西区は古くからの農村地帯とニュータウンの住宅地というほかに、学園都市という顔ももっています。1986年(昭和61年)の神戸市立外国語大学を初めとして、 1988年(63年)には流通科学大学、1989年(平成元年)には神戸芸術工科大学、同2年には神戸工業高等専門学校と県立神戸商科大学がそれぞれ移転・開学しましたし、以前から伊川谷には神戸学院大学がありました。
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by syojyu-hansin | 2010-11-04 07:48 | 街中散策会 | Trackback | Comments(0)
f0222687_18393776.jpg 12世紀の後半に強大な権力を握った平清盛は、神戸市兵庫区の平野地方にあった福原庄を好み、その南にあった大輪田ノ泊を改修して 中国との貿易を進めていましたが、1180年6月には強引にこの福原への遷都を断行しました。
しかしこの年、東国では、源頼朝や源義仲が平氏に対して兵を挙げたため、清盛は11月に都を京にもどしています。 翌春、清盛が死に、義仲が京へ進撃してきたため、平家は1183年に西国に都落ちしました。
しかし、京都に入った義仲は貴族社会と対立し、時の後白河法皇は鎌倉の頼朝に義仲追討を命じました。そこで、頼朝は弟の範頼・義経を義仲追討のために京へ進撃させました。
一方、源氏の分裂を知った平氏は、この機に都を奪回しようと西国から兵庫に上陸し、東の生田の森と西の須磨一ノ谷に砦を設けて、神戸の地を拠点と定めました。
義仲を滅ぼした義経たちは、その余勢をかって神戸の平氏攻撃を計画。範頼は京から山陽道を西に下って生田の森を、義経は丹波を迂回して加古川筋に出、川を下って播磨灘ぞいに西から一ノ谷を衝くことにしました。戦いは1184年2月7日。これがいわゆる一の谷の戦いです。

f0222687_1951218.jpg結局平氏は敗れ、源頼朝によって幕府が開かれ鎌倉時代が始まります。この時代に、区域の農村社会はいっそう開発されていきました。
このような農村経済を背景に各地に土豪が成長し、元寇によって幕府の基盤が揺らぐと、彼らは13世紀末以来激しく活躍するようになって悪党とよばれました。平野町花岡山を根拠地にしたという花岡太郎や、楠河内入道(正成の父といわれる)とともに東大寺領大部庄を襲った垂水左衛門繁昌らは、このあたりに勢を張った悪党でした。このような情勢の中で、近江寺・性海寺・太山寺などは、自衛のための僧兵を持つようになりました。
中世になると交通も発展し、兵庫から鵯越を経て三木方面に至る道路が押部谷を横切り、海辺の山陽道と三木地方を結ぶ明石川沿いの往来もさかんになりました。
f0222687_1963796.jpg14世紀に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を策しはじめると、1333年(元弘3年)西播磨で赤松円心が挙兵しました。この時、太山寺衆徒に赤松への応援を命じた大塔宮護良親王の令旨が今も同寺に伝わっています。
鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が始められると、討幕に功のあった赤松氏は勢力を拡大して播磨を支配するようになり、このあたりもその配下に入りました。やがて、後醍醐天皇の政治を不満とする武士におされて、足利尊氏が建武政府に反旗をひるがえし、1336年(建武3年)の兵庫湊川の戦いに勝利をおさめて上洛し、 2年後に征夷大将軍となって幕府を開きました。
そこで、後醍醐天皇は吉野に逃れて、南北朝時代が始まりました。この混乱期に赤松氏は足利方に味方して播磨で勢力を拡大しましたが、南朝方の新田義貞の一族にあたる金谷兵庫助は、北区の丹生山明要寺を根拠地として西区の地域にも勢力をのばして、近江寺・性海寺・太山寺などを味方に引き入れました。
ついに、1338年(暦応元年)赤松則村は西方から兵を進めて明石市の和坂でこの南朝方の勢力と戦いました。その翌年には赤松則祐が三木市の志染(しじみ)や押部谷の雄岡山(おっこさん)を経て兵を東に進め、シブレ山や櫨谷城で金谷勢を破って、遂に東播地方を制圧しました。赤松氏は範資の代には摂津守護も兼ね、幕府の四職(ししき)の一氏として権勢を誇りました。
f0222687_1994336.jpgしかし、この赤松氏も6代将軍足利義政の専政に対して将軍を暗殺し、逆に幕府に討伐されてしまいました。1441年のこの嘉吉(かきつ)の乱で赤松氏が衰弱すると、但馬の山名持豊が播磨の守護を兼ねて山陽道に進出しました。
この山名氏はやがて管領細川氏と対立して、1467年には応仁の乱を起こしましたが、これ以後、幕府の弱体化に乗じて各地の群雄は割拠し、戦国時代へと突入します。その頃、西区の地域には福中城(平野町)の間島氏、枝吉城(玉 津町)の明石氏、櫨谷城の衣笠氏などが勢力を競っていました。
この衣笠氏は、管領細川氏の台頭によって将軍の権威が失われつつあった1527年(大永7年)、12代将軍足利義晴を櫨谷城に招いて年をこさせたといいます。 16世紀半ばになって細川氏に代わって阿波出身の三好長慶が京の周辺・畿内を制圧した後、さらに勢力を西に伸ばそうとして、1554年(天文23年)摂津から播磨に進入し、三木・櫨谷・福谷・枝吉などの城を攻略しました。以後、この地方は三好氏の配下に入りました。
長慶が死ぬと権力は部下の松永久秀に奪われました。三好方は巻き返しを図りますが、1566年(永緑9年)に松永方の布引滝山城(中央区の新神戸駅西北の山城)を攻撃した三好勢の中に播磨衆として、明石・間島・衣笠氏らの名が記録されていますから、西区にいた土豪が三好氏のもとで中央の歴史の舞台にかり出されていたことがわかります。
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by syojyu-hansin | 2010-11-02 18:28 | 街中散策会 | Trackback | Comments(0)
 11月街中散策は「つわものども達が駆け抜けた平野・福原」をテーマに、平清盛、赤松則村、楠正成、時代が下って勝海舟達が駆け抜けた同地の歴史を訪ねます。9月例会では明治以降の神戸の歴史を三宮・旧租界地に尋ねましたが今例会は中世の神戸の歴史を同地にたどってみようと考えています。例会に先立ち事前情報として園田学園女子大学教授 田辺眞人さんによる先史時代~古代~中世~近世の神戸の歴史解説をお届けいたしますのでご参考下さい。神戸の歴史を学ぶ良い機会になると確信します。非会員様にも楽しんでお読みいただけるものと思います。

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先史時代

 明石市西部の屏風が浦の海岸で発見された明石人は、旧石器時代の人骨だと考えられていますが、西区でも平野町上喰池や神出・岩岡で旧石器が採集されてい ます。押部谷町の元住吉山や神出町金棒池など西区の各地で縄文時代の土器や石器が見つかっています。

今からおよそ2000年あまり前に、大陸から米づくりや金属器が伝えられ弥生時代が始まりました。明石川流域の低地は近畿地方で最も早く稲作文化が根づ いたところです。玉津吉田遺跡や周辺からの出土品を吉田郷土館で見ることができます。玉津町片山、櫨谷町青谷、平野町大畑・繁田、押部谷町養田・畑田・栄 など西区の低地に弥生時代の遺跡がたくさん発見されています。

 f0222687_2012269.jpgやがて、古墳時代になると伊川谷町の夫婦塚や玉津の王塚などの大きな前方後円墳が築かれ、古墳時代の後期には明石川流域の低地を見おろす丘の上にたくさ んの群衆墳が造られました。明石川流域のこのように発達した地域を『古事記』や『日本書紀』は明石国と呼んでいます。そこを支配した豪族は海岸部の水上交 通とも関係が深く、明石国造と呼ばれ、王塚や五色塚古墳などを築いたものと思われます。垂水の海神社や押部谷の元住吉神社、区内にいくつかある宗賢神社 (もとは海の神を祀る宗像神社だったと考えられる)などの存在は、この地方の豪族が瀬戸内海の海上交通と深くかかわっていたことを思わせます。また区の北 部の押部谷から三木市にかけて、雄略天皇の即位に際して大和からここに逃れ住んで、のちに大和に帰って顕宗・仁賢天皇になったという弘計・億計の2人の皇 子の伝説が伝わっています。三木市東部にあった縮見の屯倉とともに、国土統一の時代にこのあたりが大和の政権と深い関係があったことを物語っています。 『播磨国風土記』は弘計・億計の2皇子の物語の中に「吉備の鉄の狭鍬持ち…」という歌を記しています。北の北部にいた忍海部(押部の語源)という豪族が中 国山地で砂鉄を利用していた技術者たちと関係していたことや、鍛冶を仕事とした人々が信仰した天目一の神と関係がありそうな天一神社が押部谷にあることな どを考えると、区の北部には製鉄技術をもつ人々が古代にいたようです。

古代

 このような各地の豪族を従えて国土を統一した大和の政権は、645年からの大化改新を通じて律令によって全国を強力に支配する国家を築きあげました。

律令制度のもとでは、赤石の櫛淵(須磨浦公園一帯)が畿内(首都圏)の西端とされ、そのすぐ西側にある今の垂水区・西区・明石市の地域は播磨国明石郡と なりました。この郡の郡役所の位置については、明石市内の藤江や太寺、西区の伊川谷惣社付近などいくつかの説がありますが、近年の発掘調査で玉津町の吉田 南遺跡の地だったという意見が高まっています。平安時代前期の『倭名類聚鈔』という書物には全国の国や郡や里の名が記されていて、明石郡には葛江・明石・ 住吉・神戸・邑美・垂見・神戸という7つの里があったと書いています。ただそのほとんどが海岸部にあったようです。同じ時代の『延喜式』には全国の大きな 神社の名が記されており、明石郡内に7つの神社が記録されていますが、西区では平野町の春日神社と伊川谷町の惣社がそれに当たると思われます。

f0222687_2035774.jpgこのような西区の南部を都に続く山陽道が東西に走っていました。平安時代まで山陽道は須磨まで来ると、鉢伏山の南ふもとの荒磯をさけるために須磨の山の 北を遠まわりして、多井畑を通って塩屋に出、垂水から西に進んで玉津や岩岡の南を通っていました。多井畑は山陽道が播磨国から畿内の摂津国への入り口に当 たるために、西方から悪い病気が首都圏に入らぬようにと疫神(病いの神)のおf0222687_20423042.jpg祓いが行われたところで、その場所に現在の多井畑厄除八幡神社が祭られていま す。岩岡には『古今集』の歌や『増鏡』に描かれた野中の清水だと伝えられる泉があります。

また、神出町から明石市大久保町までの台地には平安時代から続いた須恵器の窯跡がたくさん見つかっています。須恵器は山陽道や、西明石の魚住ノ泊の港か ら各地に運び出され、また都や大陸からの文物が逆にこの地に流れ込んだことでしょう。玉津町の日輪寺や菩薩池というため池、押部谷町の性海寺などは奈良時 代に行基によって築かれたと伝えており、平安時代になると近江寺や太山寺・如意寺などの立派な寺院が、明石川や伊川や櫨谷川の谷の奥に建てられました。川 沿いの谷筋がこのころから開かれはじめ、平安時代には区の南に新熊野神社の田中庄、鎌倉時代には九条家の神戸庄などの荘園もありました。
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by syojyu-hansin | 2010-10-28 15:14 | 街中散策会 | Trackback | Comments(0)
  f0222687_18353817.jpg神戸‐尼崎市を結ぶ都市計画道路「山手幹線」の芦屋市内の未開通区間が完成し24日、計画から64年を経て全線開通する。国道2、43号と並ぶ神戸、阪神間の幹線道路として期待されながら、住宅街を貫くため、住民は環境悪化を懸念。用地買収は困難をきわめた。こうした経緯を踏まえ、兵庫県と芦屋市は来年2月にも、大規模な交通調査を実施し影響を検証する。

 総延長29・6キロ。1946(昭和21)年に都市計画決定され、県と神戸、尼崎、西宮、芦屋の4市が整備してきた。。しかし、住民らとの交渉が進まず、94年末時点で神戸市を除く3市で約6キロが未開通だった。

 95年の阪神・淡路大震災で国道43号が規制され、国道2号で大渋滞が発生。代替路線として山手幹線が注目され、県は復興のシンボルロードと位置付け、環境に配慮した整備を推進。24日に開通する芦屋川横断工区(303メートル)では、芦屋川沿いの景観維持のため、川の下をくぐるトンネル「芦屋川隧道」を掘った。

 f0222687_18362061.jpgこうした環境配慮の一環として、県は開通後、山手幹線と国道2号の神戸市東灘区‐尼崎市間で交通量調査を実施。車の流入状況などを調べる。

 芦屋市も同時期、沿線の道路を含めた市内の交通状況を調査。住環境の変化を把握する予定という。

(神戸新聞より)
                                by管理人

 記念ウォークチラシと全線地図はここをクリックしてください
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by syojyu-hansin | 2010-10-21 18:36 | 地域情報 | Trackback | Comments(0)
 少し長くなりますが神戸のの歴史を載せていますのでご覧ください。

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 近代神戸の歴史を知るには生田川と居留地の歴史を紐解く必要がある。今回の9月例会では洋服やボーリング発祥の地碑がある(この他にも沢山のモニュメントがある)東遊園地から日本一短い国道を通り旧生糸検査所、神戸税関、新港倉庫群を通り今の神戸の基を作ったと言われる神戸港から居留地をめぐる予定だ。この居留地、日本の歴史が大きく動いた幕末安政5年(1858)に幕府が諸外国と結んだ日米修好通商条約により、日本は長年に及んだ江戸幕府f0222687_14504715.jpgの鎖国政策に終止符を打ち、横浜・長崎・函館・新潟・兵庫(神戸)の5港を開港することになった。神戸旧居留地の歴史は、この時、はじまったといえる。       いつもに比べて歩行距離は若干短いが神戸発展の歴史遺構がこれでもかというくらいてんこ盛り。建築好きの人にはこたえられない歴史構造物の連続だが、一方この前を何度となく通り抜けている私達も明治から大正、昭和の歴史をあまりにも知らない事に気づくこととなる。f0222687_1451518.jpg神戸のことを知らないと兵庫人に非ず、この機会に地元をしっかり勉強してみたいものだ。

(1)生田川と神戸

そもそも神戸市が誕生する前には、西側が須磨まで「八部郡」、東側が現在の芦屋市まで「菟原郡」と区分されていたとおり、当時の生田川は、広域集落の境界をなすものであった。現在もなお、フラワーロードの東西で、街の雰囲気は異なる。ちなみに、1980年に区域再編がなされて神戸市中央区となる以前の行政区は、フラワーロードより東側が葺合区、西側が生田区であった。
生田川は天井川かつ流域が平地であるがゆえに、水害が発生するとその被害は広範囲にわたる大きなものとなっていた。幕末の開国で、京都に近い港として神戸(当時の「神戸」は、現在の神戸市中央区のフラワーロード以西、生田裔神八社の点在するエリアを指した。同じく明治時代に付け替え工事のなされる前の旧湊川が「神戸」の西の境で、その西が「兵庫」であった。)の開港が決まったが、開港にあわせて整備することとされたが外国人居留地(神戸外国人居留地)が、その位置から、生田川の災害が発生した場合に大きな被害となることが予想された。早急なる神戸の開港・神戸外国人居留地の整備が求められたことが追い風となり、加納宗七が現在の位置に生田川を付け替える工事をし、1871年に完了した。そのため現在の生田川を新生田川と呼ぶこともある。
旧生田川の河川敷は加納宗七に払い下げられ、これが同地域の地名「加納町」の由来になっている。なお、加納町歩道橋の一角には、ここにもとの生田川があったことを示す石碑が建てられている。さらに、この付け替え工事が終わり、天井川たる旧生田川が消えたことで、以後、神戸の市街地は、明治時代のうちに、それまでは田畑や林が広範囲を占めていた東側の旧菟原郡部へ急速に拡大していった。特に、旧菟原郡のなかで、もともとの「神戸」のあった旧八部郡にもっとも近い葺合村は、1889年に神戸市が誕生した当初から神戸市となっている。
生田川に公園ができたのは、生田川の付け替えの際ではなく、昭和に入り生田川を暗渠化したときである。生田川の暗渠化は市街地部分のほぼすべてについて行われ、1932年に完成、この真上に道路や公園(布引遊歩道)を整備した。当時、神戸市は、市街地の交通機能改良などの目的で各地で河川の暗渠化を政策的に実施しており、鯉川や宇治川など、生田川に限ったことではなかった。しかし、1938年の阪神大水害をもたらした大雨で流されてきた巨岩や巨木が生田川の暗渠の付け根に詰まり、行き場を失った泥水は旧生田川であるフラワーロードに濁流、周辺街区一帯に大きな被害をもたらした。この教訓から生田川の暗渠については撤去され、戦後になってから河岸に公園を再整備したものが今日の生田川公園である。

(2)神戸外国人居留地

当時定められた神戸外国人居留地の範囲は、東は旧生田川、西は鯉川筋、北は旧西国街道、南は海岸線に囲まれた約500m四方の狭い地域でした。

 f0222687_151640.jpg居留地の運営や行政には、各国領事、兵庫県知事、登録外国人の中から互選された3名以内のメンバーで構成される「居留地会議」の常任委員会(通称・行事局)があたりました。同会議は、独自に道路、下水、街灯などを整備し、運営・管理まで行っており、居留地運営の財源は、土地の借地権の競売から得られた収入と、土地に対して1年ごとに徴収した地租によるものでした。その他、居留地会議では警察税を徴収して警察隊を組織し、居留地内の犯罪を取り締まり、捕らえられた犯罪者は各国の領事に引き渡され、各国の領事により裁かれていました。

 当時の神戸外国人居留地の特徴の一つとして、この自治組織の優秀さには目を見張るものがあります。もともとこの地に居留民が少なかったという環境と、利害の対立する諸外国人の意志が反映されやすい機構であったこと、またヘルマン・トロチックなど後世に名を残す優秀なスタッフを擁したこともあり、居留地返還までの長きに渡って自治行政権を行使させることができたのです。

 f0222687_1522822.jpg明治27年(1894)日英通商航海条約が締結され、明治32年(1899)7月17日午前10時、居留地返還式が執り行われ、現金を含む居留地会議財産とともに居留地は日本政府に返還されました。東遊園地や墓地、消防用具、ガス燈などが神戸市に引き継がれ、通りには海岸通、播磨町などの地名が新たにつけられました。当日の式典の中で、フランス領事ド・ルシイ・フォサリュウは「…(中略)…居留地の歴史はそのまま神戸の歴史を述べることになるでしょうし、神戸の歴史を抜きにして居留地の歴史も語れません」と挨拶したのです。

 返還以後、大正時代から昭和初期にかけて、旧居留地には多くの日本人が入り込むようになり、ビジネスの中心地として発展を続けます。

 特に大正3年(1914)に始まった第一次世界大戦では、世界的な船舶不足を背景に造船ラッシュとなり、港神戸は好景気にわき上がりました。さらに大正12年(1923)の関東大震災で横浜港が壊滅的な打撃を受けると、生糸を始めとする横浜の輸出入産品が神戸へ運ばれ、ますますの発展を遂げます。しかし居留地そのものは戦争の打撃によって外国商館が衰退し、新たに日本の海運会社や商社、銀行などが進出。いわゆる近代洋風建築の中層オフィスビルが次々と建てられていったのです。

 
街中散策会9月例会は神戸の歴史を探しに行きます。興味のある方はどなたでも散策会にご参加ください                                                                 by管理人
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by syojyu-hansin | 2010-09-02 08:18 | 街中散策会 | Trackback | Comments(0)
 f0222687_14482041.jpg映画好きには朗報だ。元町商店街4丁目にミニシアター「元町映画館」(神戸市中央区元町通4、TEL 078-366-2636)が8月21日、オープンした。

 縦2メートル、横4メートルのスクリーンを備える同館。劇場には、66席の客席と車いす用のスペース1カ所を用意。商店街の雰囲気とは異なり、落ち着いた空間が広がる。上映作品にもよるが、1日4~5回上映する。
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「神戸初の映画を上映していきたい」と話すのは同館スタッフの高橋勲さん。「東京や大阪に比べても、神戸は映画の公開率が低い。シネコンなどでは上映されにくい多様な映画を上映していきたい」とオープン当日から9月3日までは「狙った恋の落とし方」「赤毛のアン」を交互に上映。9月4日からは、川口浩史監督の「トロッコ」を上映、当日11時からの初回上映の後には川口監督による同館初の舞台あいさつも予定している。
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今月1日には、「山形国際ドキュメンタリー映画祭2009」で最優秀賞を受賞した映画「要塞(ようさい)」を3回上映するプレオープンイベントを開催。「誰も来なかったらどうしようと思っていた(笑)」(高橋さん)というが、当日は約150人が訪れ、オープン前から注目の高さをうかがわせた。

 高橋さんは「せっかく元町にオープンするので、地元神戸・元町の方に映画を見に来てほしい。フラッと来た方が楽しめるような、堅苦しくなく、入りやすい映画館にしたい」と抱負を語る。(神戸新聞より)

 料金は、一般=1,700円、シニア、学生=1,000円、神戸映画サークル会員=1,200円、毎週火曜日は女性=1,000円、毎月1日は1,000円。上映作品の詳細や上映時間は同館ホームページで確認できる。
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by syojyu-hansin | 2010-09-01 10:49 | 生活・文化・教養 | Trackback | Comments(0)